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福岡地方裁判所小倉支部 昭和49年(ワ)392号 判決

原告

前田圭一郎

原告

前田圭二郎

右両名法定代理人父兼原告

前田圭

右同母兼原告

前田千鶴子

右原告ら訴訟代理人

三代英昭

被告

国家公務員共済組合連合会

右代表者

岸本晋

右訴訟代理人

筒井義彦

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告前田圭一朗、同前田圭二朗に対し各金四、五八五万〇、六五四円、原告前田圭、同前田千鶴子に対し各金五〇〇万円とこれらに対する昭和四九月六月一八日から支払ずみに至るまで年五分の割合による各金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張〈以下、省略〉

理由

一当事者の地位について

原告前田圭は原告前田圭一朗、同前田圭二朗両名の父であり、原告前田千鶴子は右原告圭一朗、同圭二朗の母であること及び被告は国家公務員共済組合法に基づいて設立された法人であつて、北九州市小倉北区大手町に総合病院である新小倉病院を開設し、これを経営しているものであることは、当事者間に争いがない。

二原告圭一朗、同圭二朗が両眼失明に至つた経緯について

1  原告千鶴子は、昭和四四年四月五日、北九州市小倉北区紺屋町七七挾間産婦人科医院において双生児として原告圭一朗、同圭二朗の両名を出産したこと及び同両児は在胎期間九ケ月、生下時体重は両者とも一、八五〇グラムのいわゆる未熟児であつたため、出生当日被告病院に入院し、同病院では同病院小児科の渡辺仁夫医師が診療保育を担当し、直ちに保育器に収容され、原告圭一朗、同圭二朗ともに同年四月五日から五月二三日までの四九日間、供給量毎分四リツトルを最高として酸素療法がなされたことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば右両名は同年六月五日退院したことが認められる。

2  昭和四四年七月三日、原告千鶴子らが、原告圭一朗、同圭二朗の両児を伴い、被告病院を訪れて渡辺医師の診察を受けたことは当事者間に争いがなく、証人前田頼子の証言並びに原告本人尋問の結果によれば右受診は退院時に渡辺医師から月一回健康相談に来るようにとの指示による第一回目のものであつたが、右両児が渡辺医師の診察を受けた際、原告千鶴子が渡辺医師に対し、右両児が未だ光に対して反応を示さないが異常はないかどうかを尋ねたところ、渡辺医師は、「別段異常はない。両児は早産児で退院のときが出産予定日にあたつていたのだから予定日を出産日と考えれば、未だ見えなくともおかしくはない。」旨説明したことが認められ、証人渡辺仁夫の証言中、右認定に反する部分は採用できない。

3  昭和四四年八月七日、原告千鶴子らが、同圭一朗、同圭二朗の受診のため被告病院を訪れ、盛辺医師の診察を受けた際、原告千鶴子が渡辺医師に対し、「右両児の目の動きがおかしい。」旨申し出たこと及び渡辺医師が直ちに羽出山眼科医院を紹介して、右両児に眼科の診察を受けさせたことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、右受診は退院後二回目の健康相談のためであつたが、渡辺医師が原告千鶴子の訴えをきき、両児の瞳孔を懐中電灯で照らしてみた結果、両児の両眼底にいずれも黄色のものが見えたので、その異常に気付き、前記のとおり羽出山眼科を紹介したものであることが認められ、〈証拠〉のうち、右認定に反する各部分は、〈証拠〉に照らせば、にわかに措信し難い。

4  〈証拠〉によれば、昭和四四年八月七日、前記のとおり渡辺医師から羽出山眼科医院を紹介された原告千鶴子らは、同日羽出山医院を訪れ、羽出山昭医師の診察を受けたところ、同医師は原告圭一朗、同圭二朗を後水晶体線維増殖症と診断し、回復の見込みのない旨を伝えたが、事態をよく納得してもらうため九州大学医学部附属病院眼科教室の生井教授を紹介したことが認められ、この認定に反する証拠はない。

5  原告圭、同千鶴子は、その後右九州大学医学部附属病院で原告圭一朗、同圭二朗の診察を受けたほか、東京大学医学部附属病院等においても右両児の診察を受けたが、いずれも未熟児網膜症であるとの判定であつたことは当事者間に争いがない。

6  〈証拠〉によれば、昭和四九年三月二五日の時点で、原告圭一朗の視力は、右眼が一〇センチメートルの距離の指数を弁別できる程度、左眼は全盲であり、原告圭二朗の視力は、右眼が光を感じうるだけ、左眼は全盲であり、いずれも矯正不能であることが認められる。

三本症の歴史的背景

〈証拠〉を総合すれば、以下の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

一九四二年、アメリカのテリーが、未熟児の水晶体後部に灰白色の膜状物を形成する失明例を報告したのが、本症が眼科文献に登場した最初のものであつて、一九四四年、テリーはこれをRetrolen-tal fibroplasia)後水晶体線維増殖症、R.L.F.と略称する。)と名付けた。当時、テリーらはこれを胎生期組織の遺残であると考えたが、一九四九年、オーエンスらが、本症は未熟児にみられる後天性の眼疾患であることを明らかにし、その後も本症の臨床症状、経過などが明らかにされるにつれて、後水晶体線維増殖症という名称は本症の末期の状態のみを意味するに過ぎず、ソルスビーらによつて、未熟児網膜症(Retinopathy of prema-turity)という名称が適切であると提唱され、わが国でもこの呼び方が用いられるようになつた。

本症発症の原因に関し、オーエンスらはビタミンE欠乏説を唱え、その他インガルスやスツエベクチツクは酸素欠乏説を取つたが、一九五一年オーストラリアのキヤンベルがはじめて未熟児保育時の酸素過剰にその病因を求め、この酸素過剰説はその後の多くの疫学的研究や動物実験でも支持されるようになつた。

本症は一九四〇年から一九五〇年にアメリカにおいて多発し、乳児失明の大きな原因となつたが、右の原因に関する知見に基き、一九五四年、アメリカ眼科学会のR.L.F.シンポジウムにおいて次の勧告がなされた。

(一)  未熟児に対するルーチンの酸素投与を中止する。

(二)  チアノーゼあるいは呼吸障害があるときのみ酸素を使用する。

(三)  呼吸障害がとれたら、直ちに酸素療法を中止する。

この勧告に基き、未熟児に対しては厳しい酸素の使用制限が行われ、本症の発生は劇的に減少した。

しかし、一九六〇年、アベリー、オツペンハイムは酸素を自由に使用していた一九四四年〜四八年に比べて、酸素供給を厳しく制限するようになつた一九五四年〜五八年には、呼吸窮迫症候群による未熟児の死亡が明らかに増加していることを報告し、さらにマクドナルドは、在胎三一週以下の未熟児で、無呼吸発作を反復していた症例は、R.L.F.の発生率と脳性麻痺の発生率は逆の関係があり、酸素投与期間の長いものにはR.L.F.が多いが、脳性麻痺が少いことを報告した。そこで、呼吸障害のある未熟児には高濃度の酸素療法が行われるようになり、呼吸障害の生存率も高まつたが、再び本症の発生の増加が問題とされるようになつた。

一九六七年、アメリカの「国立失明予防協会の未熟児に対する酸素療法を検討する会議」で右の本症発生の増加につき検討され、そこで、酸素療法を受けた未熟児はすべて眼科医が検査すべきこと及び未熟児は生後二年までは定期的に眼の検査を受ける必要性があることが強調された。

アメリカにおいて本症が多発した一九四〇年後半から一九五〇年ころは、わが国は丁度戦後の混乱期にあたり、未熟児保育施設は少なく、保育器も未発達であり、未熟児を高濃度の酸素環境で保育することがほとんどなく、保育器の発達したのはアメリカにおいて前記一九五四年の眼科学会の勧告による酸素制限の結果、本症がほとんど影をひそめた後であつたため我が国の小児科医、眼科医のほとんどは未熟児に対する酸素療法において酸素濃度を概ね四〇パーセント以下に制限する限り、未熟児網膜症発症のおそれはなく、本症は最早過去の疾病であるとの観念が一般化していた。

四本症の臨床経過について

〈証拠〉を総合すれば以下の事実が認められる。

本症の病変が眼底において初まるのは普通生後三週から一ケ月前後の間であり、もつとも早いもので生後八日、遅いもので生後八ケ月半で発病した症例が報告されている。在胎週数の短いものほど発症が遅れる傾向があり、ほぼ予定日前後に発病することが多いといわれる。本症は酸素療法を行なつているうちに発症することはまれで、普通は酸素療法を中止してからおこる。又、本症の多くは両眼性であるが、その程度は必ずしも同程度の障害を起すとは限らない。

欧米の何人もの学者が、本症の臨床経過の分類を試みているが、わが国ではオーエンスの分類を用いることが多いので、このオーエンスの分類に従つて臨床経過をみると、活動期、回復期、瘢痕期の三つの時期に大別し、活動期はゆつくり進行するものと、急激に進行するものとあり、大体六ケ月頃までには瘢痕期に移行する。活動期はⅠ期(血管期)、Ⅱ期(網膜期)、Ⅲ期(初期増殖期)、Ⅳ期(中等度増殖期)、Ⅴ期(高度増殖期)に細分され、Ⅰ期は網膜血管の迂曲怒張、網膜周辺部浮腫、血管新生などがみられ、第Ⅱ期は周辺網膜に限局性灰色隆起が現われ、出血が見られる時期で、この限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起り、硝子体中へ新生血管を伴う組織増殖が始まると第Ⅲ期に入り、周辺網膜には限局性の網膜剥離が起つてくる。さらに、この新生組織の増殖が中等度となると第Ⅳ期、高度となると第Ⅴ期となり、網膜全剥離、特に大量の硝子体出血を起してくる。この活動期病変は自然寛解の傾向が強く、Ⅰ、Ⅱ、時にはⅢ期まで進行した場合でも瘢痕を形成することなく完全治癒する可能性があるといわれ、植村医師らの報告では、第Ⅰ期で87.5パーセント、第Ⅱ期で三三パーセントが瘢痕を残さず治癒し、あとは多少とも瘢痕を残して治癒したと述べている。

五本症の原因について

〈証拠〉を総合すれば、以下の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

胎児の網膜は、妊娠四ケ月頃までは、無血管の状態にあり、四ケ月頃より乳頭上の硝子動脈より血管が、乳頭周辺網膜領域に新生するが、完成するのは妊娠一〇ケ月あるいはそれ以降であるため、早産児は網膜の一部が無血管状態で生れることが多い。ことに、血管新生の状態が、網膜の耳側と鼻側で異つており、鼻側に比し、耳側領域の発育が遅れるのが通常であつて、本症の変化は最も多くこの領域に出現する。

右の未熟網膜に対して酸素は敏感に反応するが、その影響は二相に分けられる。即ち、第一次的影響としては、酸素による急激かつ完全な血管収縮である。これが永続すれば、血管は閉塞を起こし、この部分の新陳代謝が妨げられ、これによつて、第二次的に網膜の残余血管の増殖性変化が出現してくる。そして、網膜周辺部では硝子体内部にまで血管が増殖して行くと考えられている。

本症の発生には、環境の酸素濃度よりも、むしろ動脈血の酸素分圧に関係があるとされている。

本症の発生機序は現在でも充分に解明され尽したとはいえない状態であるが、本症発生の素因として網膜の未熟性、誘因として酸素がそれぞれ存在作用することは異論のないところである。

本症は、生下時体重一、五〇〇グラム以下のいわゆる極少未熟児に多発するが、これは網膜の未熟度が一般的に高いところに、未熟児の生命維持、脳性麻痺予防のため多量の酸素供給を必要とする場合が多くなることからであると説明されている。

酸素療法を全く施していない未熟児においても、本症の発症をみたとの報告例があるが、これは大気中の酸素に反応したものと推測される、このような報告例があるにはあるが、とにかく未熟な網膜に高濃度の酸素を供給すれば本症の発生する危険があることは疑いなく、本症が未熟児に対する酸素療法と関係して発生すると考えることに大方異論はないといつてよい。

六被告の責任について

1  原告らと被告間の診療契約の締結

原告圭及び同千鶴子は、昭和四四年四月五日、被告病院に、原告圭一朗、同圭二朗を入院させるにあたり、未熟児である両児の心身の異常につき被告に診療を依頼し、被告において医学の知識及び技術を駆使して、未熟児である原告圭一朗、同圭二朗に発生することがあるべき病的症状、疾患を適確に予測或は診断し、その病状に最も適した治療行為を行うことを内容とする診療契約(準委任契約)を締結したことは、当事者間に争いがない。

2  被告の注意義務の判断基準について

被告の債務履行に際しての注意義務ないし過失の有無の判断は、治療行為のなされた時点における医学の一般水準(医療水準)を基準としてなされるべきことについては、当事者も見解を同じくし、当裁判所も同じ見解に立つものである。

そして、この医学の一般水準(医療水準)を各事案において考えるに際しては、問題とされる医療行為のなされた(あるいは不作為の)時期、なされた場所(地理的条件)、それがいかなる種類の診療機関における診療行為か(大学病院、総合症院、専門病院、個人経営の診療所等の差異)など諸般の事情を考慮して、具体的に判断しなければならない。

さらに、医師は、人の生命、身体というかけがえのないものを扱うというその職務の重要性からして、日々刻々進歩してゆく医学の業績を消化吸収するための研鑽を日常から積むことが要求されても止むを得ないものと考えられる。

3  原告圭一朗、同圭二朗両名の出生当時の前後の本症及び未熟児保育に関する医学の一般水準について

原告圭一朗、同圭二朗が出生した昭和四四年四月当時の、本症の治療、予防等の医療水準を知る手掛りとして、右時点前後の本症に関する研究の成果を雑誌、論文等により探ることとする。

本症は、産科、小児科及び眼科のいわば境界領域において発生する疾病であつて、本症に関する研究の発表も多くは眼科界におけるそれであるが、小児科、産科関係文献においてもとりあげられた。

(一)  眼科関係

(1) 〈証拠〉を総合するとつぎの事実が認められる。

昭和四一年五月発行の臨床眼科二〇巻五号において、国立小児病院眼科の植村恭夫、同病院小児科の栃原康子の両医師は、「未熟児の眼科的管理の必要性について」と題する論文を発表した。そこでは、本邦において未熟児保育の発達に伴つてRLF発症の危険が増加しているのに一般の関心の薄さが指摘され、本症の早期発見、早期治療のためには瘢痕期に入つてからではなく、活動期にあるうちから観察する必要があるとの観点から国立小児病院においては、未熟児が病棟にいるうちはもちろん、退院後もその眼底検査による眼科的管理を行つており、その結果相当数の例症を発見したと報告し、眼底検査の具体的方法、検査の際の注意などを詳しく紹介している。さらにソルスビーの提唱するRetinopathy of prematurityの邦訳として、初めて「未熟児網膜症」と呼ぶことを提唱し、以後これが定着した。その他本症の治療については副腎皮質ホルモン剤、ACTH、蛋白同化ホルモン等の使用が有効であるとの報告が従来からなされているが、自然寛解が多いため、どの程度有効なのか、また他に有効な治療法がないか今後検討すべき問題であると述べている。

昭和四一年一〇月発行された雑誌「眼科」には、右植村医師の対談が掲載された。その中では、眼科医がこれまで敬遠して来た小児眼科にもつと関心をもつ必要があること、そのためには小児科医との連携が必要なこと、本症についてはその早期発見の重要性、治療としてはステロイド療法を実施していることなどが語られている。

昭和四一年一二月発行の「眼科」八巻一二号には、同年三月九日、植村医師が日本短波放送の医学放送における「小児の眼疾患」と題する講話が掲載されている。この中で、植村医師は、右と同様に未熟児に対する眼科的管理の必要性を小児眼科の重要性の一内容として語つている。

(2) 〈証拠〉によれば、昭和四二年二月発行の臨眼二一巻二号において、前記植村恭夫医師他一名が「未熟児網膜症の臨床的研究」と題する論文を発表し、国立小児病院未熟児室において眼科的管理を行つた七八例のうち一三例の活動期症例の診療をなし、また同病院眼科外来で四〇例の瘢痕期症例を経験した観察結果の報告をしており、その中で本症には自然寛解が多いこと、そこで活動期Ⅰ期では治療せずに看視のみを続け、Ⅱ期に進んでから副腎皮質ホルモン療法を行つたこと、しかしⅡ期では治療しても眼底周辺に瘢痕を残す例が多いこと、眼底検査の結果を指標として酸素療法を施行すれば本症の発生、進行防止が可能であることなどが述べられていることが認められる。

(3) 〈証拠〉によれば、昭和四二年八月発行の臨眼二一巻八号誌上に、「小児の眼疾患」という標題で、前記植村医師と国立小児病院副院長浅野秀二(小児科医)との対談が掲載され、ここでも小児科、産科と眼科の連繋の必要性が強調されていることが認められる。

(4) もつとも〈証拠〉によれば、右植村医師の報告の前である古くは昭和二四年五月ころから昭和三八年一一月ころまでの間「臨床眼科」「眼科臨床医報」「青森県立中央病院医誌」等の雑誌にR.L.F.についての記事が掲載され、それは主として未熟児保育において酸素を制限すれば本症発生のおそれはないという医療界一般の概念にもかかわらず、本邦においても未熟児保育発達に伴い本症の発生がみられるようになつたとの臨床報告であつたことは認められるけれども、成立の争いのない〈証拠〉に証人永田誠の証言をも併せ考えると、右報告の大部分はすでに可逆性のない瘢痕期に入つてからの臨床所見の報告であり、治療法と結びついた報告ではなかつた関係で未だ一般眼科医はもちろん、専門的研究者の関心さえひくに至らなかつたものと認められる。

ただしつぎのような治療に関する報告もないことはなかつた。すなわち、昭和三九年、松本和夫らが臨眼にステロイド治療を試みた症例を発表したことは当事者間に争いなく、前掲甲第四号証の昭和三九年二月発行臨眼一八巻二号において弘前大学眼科の右松本他二名が発表した「水晶体後方線維増殖症の治療に就て」と題する論文がこれであつて、この中で「……本症の治療に関しては、殆んど未開拓の状態である。僅かにリースらの活動期におけるACTH治療やマンスコツト……らの酸素療法、ペリエールらのコルチコステロイド療法等が期待の持たれる治療法として目につくが、本邦では未だ本症の治療に関する報告が見当らない。私共は数例の本症を観察している間に、活動期の二例に、副腎皮質ホルモン剤のプレドニン、蛋白同化ホルモン剤のジユラボリン及びATPを併用して治療を試み、良好な結果を得たので報告する。」「……本症の治療は、できるだけ早く開始されれば、効果は更に期待されるものと思われる。治療開始の遅れない為にも、未熟児出産の場合には、産科医と眼科医の緊密な連絡のもとに、眼底所見にもとづいて酸素治療を管理し、又、旺盛な活動期の進行が見られたならば、速かにプレドニン治療を試みるのが適切な方法であると考える。」と述べていることが認められる。これに対し、前認定のとおり、植村医師らの一連の報告は、未熟児に対する定期的な眼底検査を実施することによつて本症の活動期や自然寛解の実態を明らかにし、これまで小児眼科に関心を示さなかつた眼科医一般の関心を呼び起した点に特長があるが、治療法については従来から提唱されていた副腎皮質ホルモン剤、ACTH、蛋白同化ホルモン等の使用以上には出ることがなく、その効果についてむしろ疑問を投げかけ、新しい治療法の開発を呼びかけるという性質のものであり、前掲証拠の外証人永田誠、同大島健司、同合屋長英の各証言をも併せ考えれば、右論文等が機縁となつて、少なくとも専門的研究者の間では本症に対する関心が高まつたこと、後述の永田誠医師による光凝固法による治療法の開発も右論文に啓発されたものであることが認められる。

(5) 昭和四三年四月発行された臨眼において、天理よろず相談所病院永田誠医師が、昭和四二年に未熟児網膜症に対し光凝固術を施行した結果、病勢が停止したことを発表したことは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、つぎの事実が認められる。

右永田医師他三名が昭和四三年四月発行の臨眼二二巻四号に発表した「未熟児綱膜症の光凝固による治療」と題する論文において、次の如く述べている。即ち、「昭和四二年四月の天理よろず相談所病院の開設以来、小児科未熟児室において総数四六名の未熟児を扱い、生存例三六名中三一名について眼科的管理を行つてきたが、そのうち生下時体重一、四〇〇グラム、及び一、五〇〇グラムの特発性呼吸障害症候群の未熟児二名に已むを得ず行なつた酸素供給中止後、次第に悪化する活動期・未熟児網膜症を発見し、オーエンスⅡ期よりⅢ期に進行してゆくことを確認したうえで、網膜周辺部の血管新生の盛んな部分に対して全身麻酔下に光凝固手術を行い、頓挫的に病勢の中断されるのを経験した」と。

さらに、光凝固法を採用した理由を説明した上、「本症には自然寛解があり、光凝固施行の時期には問題があると思われるが、十分な眼底検査による経過観察により適当な時期を選んで行えば、あるいは重症の未熟児網膜症に対する有力な治療手段となる可能性がある。」と述べている。

昭和四三年一〇月発行の「眼科」誌上においても、右永田医師は右と同様の研究発表をなしている。この中で光凝固により人工的瘢痕を作ることが今後の眼球の発育に影響がないかどうかは今後の経過観察に俟つ他はないと述べている。

(6) 〈証拠〉によれば、昭和四四年一月発行の臨眼二三巻一号は、昭和四三年秋に開かれた第二二回日本臨床眼科学会における講演を特集し、その中で、開西医科大学眼科学教室塚原勇他三名により「未熟児の眼の管理」との標題で研究発表がなされ、その中では昭和四二年三月から同四三年八月の間に関西医大病院未熟児室に収容された一三六例の検査の結果内七例に本症が発生したことを報告するとともに、眼底検査の重要性を説くほか、「従来から網膜症の軽症例は自然寛解治癒の傾向が強いといわれている。」「網膜症の初期にはステロイドホルモン投与が有効とされているが、どれだけ確実に効果があるのか疑問である。……(本症は)治療より予防が大切である。」などと述べていることが認められる。

(7) 〈証拠〉によれば、昭和四四年九月発行された青森県立中央病院医誌一四巻三号において、須田栄二は「未熟児網膜症についての臨床的考察」と題する研究を発表し、その内容は、右病院でルーチンの眼底検査を施行した過去二年四ケ月間の症例の報告を中心とするもので、二三四例につき眼底検査を行つた結果、一三例の本症発症例が発見されたと述べていることが認められる。

(8) 〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

昭和四五年五月発行された臨眼二四巻五号で、前記永田誠医師外一名は「未熟児網膜症の光凝固による治療Ⅱ――四症例の追加並びに光凝固療法適用時期の重要性に関する考察――」と題する論文を発表し、ここで、昭和四三年一月から同四四年五月末までに光凝固を行つた四例を紹介しとくに光凝固の実施時期について触れ、オーエンスⅣ期で実施したのでは、光凝固自体が困難であるばかりでなく、たとえこの時点で病勢が停止しても、あとに残る瘢痕期病変を考えると良好な視力の予後は望めないことなどから、オーエンスⅢ期に実施すべきであるとしている。

昭和四五年一一月発行の臨眼二四巻一一号は小児眼科の特集を組み、永田医師はここでも「未熟児網膜症」という標題で、本症の歴史的背景、病態、眼底検査の方法等に触れ、光凝固について右と同内容の研究成果を発表している。そして、光凝固法を行つた第一例はすでに三歳になつているが、後遺症はなく、ほぼ正常の視力を保つている。と述べている。

(9) 〈証拠〉によれば、昭和四六年九月発行された、「日本眼科紀要」二二巻九号において、九州大学医学部眼科学教室の大島健司他五名は「九大における未熟児網膜症の治療と二、三の問題点」と題する論文を発表し、この中で昭和四五年一年間の本症の発生、経過、治療に関する報告をなしていることが認められる。

それによれば、実験対象は昭和四五年に九大附属病院と国立福岡中央病院の未熟児室に入院した一五七例で、定期的眼底検査を行い、これらに、同期間内に九大眼科外来を受診し、追跡調査をうけた患児のうち、二三例に光凝固法を行つたこと、このうちⅢ期に実施したものは著効が認められたが、Ⅳ期に施行したものは結果が良くなかつたこと、などを述べている。

(10) 〈証拠〉によれば、昭和四七年三月発行された臨眼二六巻三号において、前記永田誠医師他二名は「未熟児網膜症の光凝固による治療(Ⅲ)――特に光凝固実施後の網膜血管の発育について――」と題する論文を発表し、光凝固の実施時期の判定には経験を要すること、自験例の中で、特に未熟の程度が強く、無血管帯の幅が広い症例において、光凝固治療による病勢の頓挫後、一旦周辺に向つて発育し始めた網膜血管が、途中で再びその発育を停止し、あらためて活動期病変を発生することがあるのを認めたこと、などが述べられ、光凝固実施の適期はオーエンスⅡ期からⅢ期への移行期か、Ⅱ期の終りが最も理想的である旨述べたほか、光凝固治療を受けた眼球の剖検例の紹介もなされ、しめくくりとして、本症に対する治療法も理論的には完成したということができるので、今後はこの知識をいかに普及し、いかに全国的規模で実行することができるかという点に主なる努力が傾けられるべきではないかと考えると述べていることが認められる。

なお、本文の後の質疑応答で東北大学の山下医師が冷凍凝固の業績に関する発表をなしていることも認められる。

(二)  小児科関係

未熟児網膜症は未熟児に特有な疾病とはいえ、あくまで眼の疾病であるから、その研究、臨床例の報告は多く眼科領域の研究者、医師がした関係からと思われるが、後記認定のとおり小児科関係雑誌等での報告、発表は眼科関係のそれに比し少量であり、しかも時期的におくれているように見受けられる。

(1) 前記国立小児病院眼科植村医師が、昭和四〇年、雑誌「小児科」において、「小児疾患と眼底所見」と題する論文を発表し、その中で本症の予防法としての眼底検査の必要性を述べたことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、この論文は昭和四〇年六月発行の小児科六巻六号に掲載されたものであるが、それは同医師が国立小児病院で定期的眼底検査を実施する前のもので、この中で、近年、本邦においても、眼科外来を訪れる本症患者の数が次第に増加してきていること、早急に産科医、小児科医、眼科医らが一体となつて、本症の実態を調査把握し、その予防対策、早期発見、早期治療の態勢を確立するよう努力することが必要であることなどを述べた以外は本症の原因、臨床症状及び経過、予防及び治療に関する欧米の学説を紹介したに止まり、前認定の眼科関係雑誌におけるような啓蒙的色彩を帯びたものではなかつたことが認められる。

(2) 昭和四三年、九州大学の高嶋幸男らが雑誌「小児科診療」に、「退院時における未熟児眼底検査とその意義について」と題する報告をなしたことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、昭和四三年一月発行の小児科診療三一巻一号に九州大学小児科学教室の前記高嶋外三名が発表したものがこれで、九州大学の未熟児室では、昭和三六年より眼障害を早期に発見するいみで、退院の際、眼科を受診させ、眼底検査を中心とした眼科的一般検査を行つていると述べ、退院の際眼科で検査を受けた二〇一例のうち、R.L.F.が二例であつたと述べられ、その原因、治療についてはいまだ十分な結論はえられていないこと、最近片眼のR.L.F.がかなり発表されているのは、酸素環境の改善に注意が払われるようになつて、眼の素因の方が目立つてきたとも考えられることなどが述べられたあと、本症の治療については、ACTH、酸素療法、副腎皮質ホルモンが紹介され、前記松本和夫医師らの副腎皮質ホルモン、蛋白同化ホルモン、ATPの併用療法の報告にふれたあと、治療の時期については、線維形成ができたものはもはや瘢痕として残るため、それ以前できるだけ早期に診断、治療されねばならないこと、さらに予防については、酸素濃度を四〇パーセント以下に保ち、酸素の不適当な中断、中止はさけ、酸素濃度は漸減し、また、酸素の供給時間、濃度とも必要最少限度とし、酸素停止は徐々に行い、初期変化を認めたら高酸素濃度にもどすことなどを紹介し、最後に、未熟児にはいろいろの重要な眼疾があるので、これらの早期発見の意味からも、退院時のみでなく、一〜二週毎の定期的眼底検査を行い、眼科的管理を行う必要があると述べられていることが認められる。

(3) 〈証拠〉によれば、昭和四六年一〇月発行された季刊小児医学四巻四号、新生児研究の進歩の特集号において、国立小児病院小児内科の奥山和夫医師は、「水晶体後部線維増殖症」の標題で、本症の歴史的背景、発生機序、臨床経過、予防及び治療にわたつて、相当詳細な解説を加えており、むすびの部分で、「本症の治療に、光凝固法が登場したが、適切な時期に光凝固法を行なうことによつて、失明を救い得るようになつた。R.L.F.の予防と治療には、小児科医と眼科医の密接な協力が必要であることが痛感される。」と述べていることが認められる。

(4) 以上の外〈証拠〉によれば昭和三〇年一一月ごろから昭和三八年一月ごろまでの「小児科診療」「臨床小児医学」「医学シンポジウム」等の雑誌や「小児科学」等において本症につての報告、発表が掲載せられているが、そのほとんどは欧米の学説の紹介等であり、酸素療法を行うにあたり四〇パーセント以上の濃度を必要とするときの注意や酸素濃度を下げる場合には急激な低下は避けるべきこと等の注意に止まつていることが認められる。

4  渡辺医師の注意義務懈怠の存否について

(一)  原告圭一朗、圭二朗の主治医であつた渡辺医師が同原告らの入院保育中はもとより昭和四四年八月七日両親の訴えをきいて始めて眼科の羽出山医師に紹介するまでの間両児の眼底検査を行わなかつたこと、それは同医師が未熟児網膜症という疾病があり、未熟児に対する酸素療法に関して発生するものであることは知つていたものの、両児に発症の危険があるとは思い至らなかつたためであることは当事者間に争いがなく、証人渡辺仁夫の証言によれば、同医師は未熟児に酸素療法を行うにあたり原告圭一朗、同圭二朗の場合のようにその濃度を四〇パーセント以下に制限すれば本症発症のおそれはないとの知見しか有しておらず、日頃から興味をもつていたアレルギーや気管支喘息関係は別として医学雑誌等本症関係の記事を注意して読んだことはなく、まして眼科関係の雑誌など一度も見たことがなく、したがつて本症の早期発見のため未熟児の定期的眼底検査を行う必要性のあることなど全く知らなかつたことが認められる。

(二) 先づここで問題になる眼底検査を行う義務というのはあくまで本症の治療の前提としての意味しかないのであるから、効果的な治療方法の存在することが必要であり、それがなければ眼底検査には全く意味がない。

〈証拠〉によると、現在の段階で本症の治療上有効なものとされているのは光凝固法およびこれと原理を同じくする冷凍凝固法のみであり、かねてから提唱されていた副腎皮質ホルモン、ACTH等の薬物療法は顧みられなくなつていることが認められる。

そして前記のとおり、光凝固法が、我国において初めて公けになされたのは、昭和四三年四月発行された臨眼誌上における永田誠医師らの二症例の報告例であり、右永田医師らによつて四症例の追加症例が発表されたのが、昭和四五年五月であつて、原告圭一朗、同圭二朗両名の住所地である北九州市に最も近い処で早期に光凝固法に取り組んだと考えられる九州大学医学部においてこれが試みられたのは、証人合屋長英、同大島健司の各証言によれば昭和四五年以降であることが認められ、原告圭一朗、同圭二朗の出生時である昭和四四年四月当時は、右に述べた永田医師の昭和四三年に発表した二症例しか公けにされておらない状況で、この最初の症例の追試の段階、それも追試早々の段階であることが認められることから、原告圭一朗、同圭二朗に対し光凝固法の施行を期待することは、無理であつたものと判断せざるを得ない。

しかしながら、〈証拠〉を総合すれば、副腎皮質ホルモン等の薬剤が顧みられなくなつたのは、本症自然寛解率が高く、副腎皮質ホルモン剤やACTHを投与した症例においても、この薬効で治療したのか、自然治癒したのか明らかでなく、このようなホルモン剤の投与には副作用の心配が常に働くのに対し、光凝固法というより効果のはつきりした治療法が一応確立されたためであると認めるのが相当であり、ホルモン剤の効果が完全に否定し去られたことまで認めるに足りる証拠はないのであるから、右一事をもつて渡辺医師の責任を否定することはできない。

(三) 本邦における本症研究の成果の項で述べたように、本邦において未熟児保育が進歩したのは、欧米において酸素投与を制限することによつて、多発していた未熟児網膜症が影をひそめた後のことであつたため、医療界では未熟児の酸素療法にあたりその濃度さえ制限すれば本症発症の危険はないとの知見が一般的であつて、眼科関係の雑誌においては相当早くから酸素制限にも拘らず、なお本症の発症をみているとして警鐘を鳴らした報告が掲載されたことはあつても専門的研究者の関心さえひくに至らず、植村医師が昭和四一年五月からの一連の論文で提唱した未熟児の本症の早期発見の必要性が始めて専門的研究者や先覚的臨床医の関心をひくようになり、これに啓発された永田医師の昭和四三年四月の光凝固法という画期的な新治療法の発表および同医師の昭和四五年五月の追試の発表によつて、(ただし小児科関係においては右新知議の雑誌への掲載は眼科関係より遅れた。)右治療法と植村医師の提唱した眼底検査とが相俟つて次第に普及し確立し始めたものと認められる。

ところで医師には研鑽義務があるとはいつても、専門的研究者ならば格別、日頃診療業務に追われている臨床医に医学雑誌等による厖大な医学の新知識に関する情報をその時点でもれなく吸収することを要求することのできないことは多言を要しないところであり、右知見が医療界に受け入れられて次第に普及して行く一時点にこれを求めなければならない。

而して〈証拠〉によれば、一般に診療に関する新知識が一般臨床医にまで普及するには一定の期間を要するのが通常であり、特に本件のような未熟児の眼底検査には特殊な技術の習得を要する等その実施には人的物的な整備期間が必要であることが認められるから、総合病院であり、未熟児の保育施設を有している被告病院程度の小児科医たる渡辺医師としてはおそくとも、全国的にみても一流と思われる診療機関が定期的眼底検査の実施に着手し始めた時期には右眼底検査についての新知識を感得すべきであつたというのが相当である。

(四)  そこで一流と目される病院での眼底検査の実施状況をみてみると、

(1) 〈証拠〉によれば、我国において、昭和三五年という早い時期にR.L.F.発生の危険性を警告した中島章医師の勤務先である順天堂大学附属病院においても、昭和五〇年現在、同病院で保育する未熟児をルーチンに全部眼底検査の対象とするシステムにはなつておらず、小児科あるいは産科から依頼があつたもののみ検査している状況であることが認められる。

(2) 〈証拠〉によれば、東京都でも有数な未熟児収容施設である都立母子保険医末熟児施設は、昭和三〇年ころに開設されているが、眼科医がここを訪れて、定期的に眼底検査をするようになつたのは、昭和四五年四月ころからであること及び前記奥山和男医師の出身大学である東京大学の附属病院においても、同医師が講師として勤務していた昭和四四年三月までの間には、また未熟児全部の眼底検査を実施するシステムはとられていなかつたことが認められる。

(3) 〈証拠〉によれば、昭和五〇年七月当時、日赤医療センター眼科部長であつた梶利一医師が日赤産院で定期的眼底検査を始めたのは昭和四四年からであることが認められる。

(4) 〈証拠〉によれば、日本大学医学部小児科で定期的眼底検査が確実になされるようになつたのは、せいぜい昭和四七年以降であることが認められる。

(5) 〈証拠〉によれば、三井幸彦が教授として勤務していた徳島大学附属病院においても、昭和五〇年八月当時、同大学には未熟児センターが設置されていたが、未熟児全部に対してルーチンの定期的眼底検査を実施するシステムは採られておらず、小児科から依頼があつたら検査するといつた程度であつたことが認められる。

(6) 九州大学小児科においては、昭和三六年から未熟児の退院の際に本症のほか未熟児に発症する惧れのある眼疾患を発見する手がかりとして眼底検査が実施されてきたことは前記のとおりであるが、〈証拠〉によれば、右の退院時の眼底検査が昭和四五年まで続けられ、週一回もしくは二週に一回のいわゆる定期的眼底検査が行われるようになつたのは、昭和四五年に前記大島健司医師が光凝固療法を試みるにあたり、その施行の適期判定のためこれが行われるようになつたものであることが認められ、この認定に反する証拠はない。

以上のとおり植村医師や永田医師のような先覚的医師を擁していた病院は格別、我が国でも一流と目して差支えない診療機関が眼底検査の実施に着手したのはおおむね昭和四五年以降であり、特に被告病院に最も近い九州大学附属病院においても然りである。

したがつて原告圭一朗、同圭二朗両児に対して酸素療法を施した昭和四四年四月当時渡辺医師が眼底検査の必要性を知らなかつたとしてもこれを非難することはできず、また前述のとおり同年七月三日原告千鶴子から未だ両児の光に対する反応を示さない旨の訴えを受けた際格別の措置をとらなかつた点についても同様である。

5  被告の注意義務違反の存否について

原告らは、被告が、(イ)被告病院において眼科をも標榜し乍ら、眼科医を常置していなかつたこと、(ロ)小児科と眼科との有機的連繋を整備し、協同診療体制をとるよう指示しなかつたことを被告の過失と主張する。

(一)  眼科医を常置しなかつたことについて

被告病院が、眼科をも標榜していること及び原告圭一朗、同圭二朗の入院期間中、眼科担当専門医を常置していなかつたことは当事者間に争いのないところではあるが、しかしながら眼科を標榜する病院に眼科医を常置しないことを過失視すべき何らのいわれはなく原告らの右主張は理由がない。

(二)  協同診療体制の指示をなさなかつた点について

なるほど本症は産科、小児科と眼科の境界領域において発生する疾病であつて眼底検査の施行については両科の密接な連携の必要であることはもちろんであるけれども、昭和四四年四月当時眼底検査の必要性に関する知見の普及度はすでに述べた程度であつて、被告病院の小児科の渡辺医師が右知識を有しなかつたことが致し方のないものである以上、共同診療体制の指示はその前期を欠くものといわざるを得ない。

したがつて右のような指示をしなかつたことをもつて被告の過失とする原告らの主張もまた採用することができない。

七結論

以上の事実及び判断によれば、帰するところ原告らの本訴請求は理由がないものといわざるを得ず、よつて原告らの請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(諸江田鶴雄 佐藤敏夫 谷敏行)

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